命ってどれくらい?
先日、日本のVIPが亡くなりました。
考えることがあったから、ここに残そうと思います。
一つは、SNSをどれだけのぞいても私の意見は書かれていないということ。
私が書いているわけじゃないから当然なんだけどね。
検索したり、トレンドに挙がっている言葉のツイートは
過激で目立つものが見やすい場所に表示される。
でもこれは私の意見じゃないから、これを見て気分を上下させるのは
辞めようと思った。
例えば、「SPは何をやってるんだ」という声。
確かに、彼らはVIPを守れなかった。つぶやいている人は、SPや警察という
団体を批判しているんだと思うけど、限られた文字数で表現されている
それを見ると、個人を批判しているように見えてしまった。
当日のSP個人を批判するということは、SPの方の生存を批判していることに近いように感じてしまう。
「SPは何やってるんだ」は「なぜお前が生きているんだ」に聞こえてしまって、苦しくなった。見たくない言葉だった。
上記のようにぱっと見で批判とわかる言葉を残す人は、日頃から攻撃的な人なんだろうと推測でき一種の諦めがつく。しかし質の悪いことに優しい仮面をかぶった残酷な人間もいる。「今回のことは反省して、次に生かせればいいですね」と。
どうも他人事だし、私はやはり「次はVIPをしっかり守り、あなたが職に殉じることができればよいですね」と聞こえてしまう。
SPとは職業柄、そういう厳しさを理解した人がなっているのかもしれない。
しかし平和ボケ人間を全うしてきた私としては、寒気がした。
「日本はテロが起こる国になったのだ。
日本人の平和ボケは終わらせなければいけない。」
なんて声も挙がってしまっているけど、どうすれば平和ボケを
続けていけるか考えていてもいいですか。
ずーっと平和ボケしていられる国であってほしいです。
次は、県警の会見について。
当日の会見、「回答は控えさせていただきます」「現在捜査中です」ばっかりだったよね。
私は会見を見て、その回答を含めて納得しました。
これまでの歴史の中で、一つの事件・犯罪・自殺・幸せが、別の事件・犯罪・自殺・幸せの卵を孵らせることがたくさんありました。
止まらない、止められない社会で、悪い影響を広げないために情報のすべてを注目度の高い場所で明らかにするのにはリスクがあるのかなと。
また、これから聞き取りなどの捜査がおそらく進められていく中で、警察から情報を市民に提供してしまうと、市民の声の信ぴょう性が薄くなってしまいますよね。
人間の記憶って書き替えられやすいです。私の学生時代、部活の顧問の先生は私たちの代で起こった出来事を美しく編集して下の代に伝えていました。
そんなもんです。だから、警察から情報を提供してしまうと自分の記憶と警察からの情報をうまく切り貼りして自分の記憶にしてしまうと思います。
市民の声がピュアなものでなくなってしまう。だから言えないのも仕方ないよなと感じました。
ただ、事件当日の言い訳を考える時間が十分にない状況で会見を開き、「言えない」「わからない」「捜査中」「捜査予定である」ということを確認できただけで収穫なんだと思っています。
この事件の犯人の刑が決定して、捜査が終わるころにもう一度同じ質問をする人がいるかということが重要だと思う。その時にははっきりと答えてほしい。
あとは、この捜査に関わる人が心身ともに健康でいられますように。
ただ、事実の追求のために堅実に捜査を進めてくださいますように。
人の命が亡くなる瞬間、あんなにコッといってしまうものだとは思わなかった。
祖父母を見ていたら、だんだん弱っていって力尽きていくものだと思っていたし、
自分でその結果を選んだ人は苦しみながら行くものだと思ってて、
死を得るにはもっと時間がかかって苦しみがあるものだと思ってた。
亡くなった彼は、きっと富と権力を先祖代々持っていて、バッシングにも(表面では)耐える強さを持っていたのに、あんな風に一瞬で。効果音もつかないほど静かに、一瞬んでいくのかと。ショックだった。